「アイネクライネナハトムジーク」 ぼんやりを解体する

アイネクライネナハトムジーク」(2019)
監督:今泉力哉

「愛がなんだ」は、超高性能な顕微鏡でテルコという異分子を発見し、彼女の一挙手一投足をつぶさに観察するような作品だったと思う。
その解像度に目が慣れていると、「アイネクライネナハトムジーク」に登場する人々は、ぼんやりと映るかもしれない。
しかしそのぼんやり感は、ある意味で伏線あり、作品が終わるころにはその感覚が愛しいとすら感じられます。

 

映画の前半は、紗季(多部未華子)と佐藤(三浦春馬)の出会いが描かれ、映画の後半はその十年後の世界が描かれる。

紗季と十年にわたり交際を続けていた佐藤は、紗季との結婚を真剣に考えていた。
ある日佐藤はプロポーズをするために、紗季と夜景の見える高級ホテルで食事をするが、肝心なことは何も話せずに会計を払い終えてしまう。

ホテルを後にしてから、紗季は「牛乳が切れていた」と買い物に行こうとするが、その背中を呼び止めて、佐藤は「話があるんだけど」と切り出す。ここでようやく、彼は指輪の箱を取り出して、プロポーズをする。
「どうしてさっき言わなかったの」と紗季はもっともな疑問を口にする。佐藤は「周りに迷惑かなと思って」とまごついた言い訳をする(このときの「周りに迷惑」というフレーズの絶望感は、『愛がなんだ』のマモルを彷彿とさせる)。

結局、紗季はプロポーズを保留する。なぜかと食い下がる佐藤に対し、彼女は「わからなくなった」としか答えられない。
翌日、書置きを残して紗季は二人で暮らした家を静かにあとにする。

*

少し時が流れて、紗季はバスに乗り、二人掛けの座席にひとりでぽつんと座っている。
このときの、彼女の幽玄な佇まいである。ここでわれわれの作品に対する態度ははっきりと変わる。
虚空を見つめる紗季の瞳には、人生の奥行きが映りこんでいるようだ。
彼女が体現する「ぼんやり」は、迂闊さや、軽率さのニュアンスとは異なっている。
それは言語化できない思いと向き合うための、抜き差しのならない儀式なのだと思う。


*バスの揺れ方で人生の意味はわからなかったが、スピッツのこの曲を思い出していた

 

二人が始めて出会った日に、日本人として初めてボクシングのヘビー級で世界チャンピオンとなった男が、十年ぶりの挑戦者決定戦に挑む。
その日、仙台駅の歩道橋で歌うストリートミュージャンの前で、佐藤は紗季の姿を見かける。
佐藤は後を追うが、紗季は気付かずにバスに乗ってしまう。佐藤はそのバスを懸命に追いかける。

いくつかのバス停を先回りして、佐藤はようやくバスに追いつくことができる。
しかし、そこで佐藤は一人で泣いている子供を見つけて、Uターンをする。
紗季が外の景色を眺めると、そこには子供をあやす佐藤の姿があり、彼女はひそかに微笑む。
佐藤が子供の親を見つけてから、とぼとぼとバス停に向かうと、そこには紗季の姿がある。

この筋書きは物語としては平凡なものかもしれない。
それでも温かい気持ちになってしまうのは、紗季の「ぼんやり」を解体するために必要だったのが、そのような単純な優しさだったいうことを、我々がよく知っているからだと思う。

アイネクライネナハトムジーク』は『愛がなんだ』のような、衝撃的な物語ではない。
それは、平凡で、大した取り柄もなく、日々ぼんやりと悩んでいるわれわれの物語だ。
そしてわれわれは、そのような言語化できない思いを、単純な優しさが解体してくれることがあるということを、経験則としてよく知っている。
この物語は、そのような人間の法則は、理屈ではなく、不可思議で、だからこそすばらしいということを素朴に伝えてくれる。

思い悩んで疲れている人には、ぜひ見てほしい映画です。
共感できる部分があり、なにより多部ちゃんの表情に癒されると思います。