「バーニング 劇場版」についての考察

 「バーニング 劇場版」(2018)
監督:イ・チャンドン


各賞での「万引き家族」とのデッドヒートでも話題になりましたが、村上春樹の短編「納屋を焼く」を原作にした「バーニング 劇場版」(以下「バーニング」)がとても面白かったので、考察を書き残しておきたいと思います。
遠慮なくネタバレしますので未鑑賞の方は注意してください。

 

 原作との相違点

「納屋を焼く」の原作では、「僕」「彼女」「彼」が主な登場人物となっている。
「僕」と「彼女」は交際しているが、「彼女」には他にもボーイフレンドがいる。「僕」がたまたま出会うことになる「彼」もその一人である。
ある日、「彼」は「僕」に「納屋を焼く」という奇妙な趣味があることを話す。それと同時期に「彼女」は忽然と姿を消す。
「僕」は「彼」に行方を尋ねるが、「彼」は知らないと答え、代わりに「彼」は新たに納屋を焼いたことを「僕」に伝える。
その後も「僕」は「彼女」を探しつづけるが、手がかりがまったくつかめず結局諦めてしまう。
原作では、「僕」の女性に対するコミットメントはあまり高いとは言えない。それゆえに作品は宙ぶらりんなまま閉じられ、不気味な感触だけがこちらに残される。

一方の「バーニング」では、「僕」=ジョンス(ユ・アイン)、「彼女」=ヘミ(チョン・ジョンソ)、「彼」=ベン(スティーブン・ユァン)とそれぞれに固有の名称が与えられる。
そして「僕」=ジョンスが、「彼女」=ヘミを素朴に愛するようになっている点は重要なポイントである。
この恋愛感情の操作によって、原作のその後を描く余地が生みだされている。
すなわち「バーニング」は、真実のわからない怪談的な原作を「ヘミはどこへいったか」「ベンは何者なのか」を追求するミステリーへと変貌させる作品である。
また、その事件の真相を追うのはジョンスだが、しだいに彼には不気味な影が宿っていく。
そして物語は、ジョンスがベンを手にかけたところで幕を閉じる。

なぜジョンスはベンを殺したか

これについては二つの側面があると思う。

一つ目はヘミに対する愛情だ。
ジョンスは聞き込みを続けるなかで、ヘミが一文無しで平気で嘘をつく女だったと知る。
しかし、ジョンスの母親の証言がヘミの話と一致したことなどから、少なくとも彼女はジョンスに対しては正直に生きていたことがわかった。
またヘミの飼い猫である「ボイル」がベンの家にいたこと、彼の家の引き出しにジョンスがヘミにプレゼントした時計があったことから、ジョンスはベンがヘミを殺した犯人と断定。ベンに対して復讐を行った。

二つ目はジョンスの「二面性」のようなものだ。
原作の「納屋を焼く」には以下のような一節がある。

時々僕は彼が僕に納屋を焼かせようとしているんじゃないかと思うことがあった。

「バーニング」でも、ベンの「ビニールハウスを焼いている」という告白を受けて、ジョンスの中で暴力的な衝動が育ち始める。
ベンとの別れのあと、彼はビニールハウスを焼く夢を見るようになった。

このことには、ベンが語る「同時存在」という概念も関与していると思う。
(映画版でどのように説明したかを正確に覚えていないので)原作での「彼」による説明を引用する。

僕がここにいて、僕があそこにいる。僕は東京にいて、僕は同時にチュニスにいる。責めるのが僕であり、ゆるすのが僕です。

わかるようでわからない気もするが、これに乗っ取ってみるならば、ジョンスは(ヘミを)「焼かれた側」であり、(ベンを)「焼く側」であったともいえる。

その二面性は、窓を使ったショットでも暗示されている。
前半で窓が映る場面では、ジョンスが「覗く」側となっているのに対し、物語の終盤ではジョンスは「覗かれる」側になっている。
特にヘミの部屋においては、冒頭の性交の場面を筆頭に、常にジョンスが部屋の中から窓の外を覗いていたのに対し、ジョンスが犯行におよぶ直前、ヘミの部屋でパソコンを操作するシーンでは、ジョンスは窓から覗かれるショットに変わっている。
また、クライマックスのベンを殺害したジョンスがトラックで逃走する場面は、彼の表情をフロントガラス越しに「覗いた」ショットになっている。

グレート・ギャツビー」からの影響

窓を通した二面性の表現というアイデアは、作中でも言及がある「グレート・ギャツビー」から得られているのかもしれない。
かの作品では、乱痴気騒ぎのパーティのなかで、泥酔した主人公のキャラウェイが以下のように考える場面がある。

(前略) それでも、この町の空高く連なる黄色いぼくたちの窓々は、暮れてゆく街路に立ってたまたま眺めやる者の眼に、それなりの人間の秘密を語りかけていたにちがいなく、空を見上げていぶかしんでいる人の姿もまたぼくの眼にはありありと浮かんでいた。ぼくの心は、尽きることのない人生の種々相に、魅せられると同時に反発も感じながら、部屋の内と外とに分裂していた。*1

グレート・ギャツビー」という作品では、大金持ちのギャツビーが、なぜかキャラウェイというきわだった個性のない人物に興味を持つが、一方のキャラウェイはギャツビーとの交友を深めながら、同時に彼のことを冷めたまなざしでも見つめている。
二人のその関係性は、ベンとジョンスの関係ととても似ているようにも思える。
原作の「納屋を焼く」でも「グレート・ギャツビー」の影響が指摘されているそうだが*2、本作ではより意識的なオマージュが行われているのかもしれない。

偉大なギャツビー (集英社文庫)
 

回転木馬のデッドヒート」からの影響

「バーニング」の直接の原作は「蛍・納屋を焼く・その他の短編」に収録された「納屋を焼く」だが、同じく村上春樹の「回転木馬のデッドヒート」に収録された作品からも引用があったように思う。
正体不明の無言電話はまさに「嘔吐1979」だし、ナイフの登場は「ハンティング・ナイフ」から影響を受けているのかもしれない。
また、先には「グレート・ギャツビー」からの影響で説明をしているが、「窓を覗く」という行為については「野球場」から着想を得ている可能性もありそうだ。
もちろん偶然という可能性もあるが、ほかにもあるかもしれないので、詳しい人は教えてください。

おわりに

なにが現実で、なにが幻想なのか判断がつかない、原作の本質ともいえる宙吊り感を温存しながら、設定の調整によって、作品の「その後」の領域を捻出し、上質なミステリーとして仕立て直した監督の編集能力があまりに見事でした。
俳優陣についても、スティーブン・ユァンの謎めいた魅力や、チェン・ジョンソの奔放でしなやかなヘミの演技がすばらしかったように思います。
柄本佑さん、石橋静河さんの「きみの鳥はうたえる」コンビに、ベン役を松田龍平さんあたりで、日本版のリメイクもいかがでしょう?

*1:野崎孝訳。なぜ村上春樹訳からの引用ではないのか、という指摘はご容赦願いたい

*2:wikipediaの受け売りである