「あのこは貴族」 東京を生きる、幸運を祈る
「あのこは貴族」(2021)
監督:岨手由貴子
Twitterで、岸政彦先生が「この映画気になる」と言っていて、先生が邦画の話するのは珍しいなと思っていたら、そこに原作者の山内マリコさんが「100分de名著のディスタンクシオンの回観てました!」と反応していて、面白い偶然だとひとり盛り上がっていたのですが、実際作品を見てみると、それは偶然というより必然だったのかもしれません。
二人が(あるいはブルデューが)言おうとしていたのは、とても近しいことだったのだと思う。
これでもかというほど、階層を可視化し、突き付ける物語である。
住んでいる家、着ている服、付き合う友人、車と自転車、暮らしの中のちょっとした仕草(華子を演じた門脇麦さんの演技がすばらしい)。それらは階層によって驚くほど異なっていることがわかる。
もちろん映画的に多少デフォルメされている部分があるとはいえ、東京という街が階層によって分断されているのは紛れもない事実だと思う。
我々にその実感がないとすれば、それがあまりにも自然に整理されているので、そもそも違う階層の人との接点がほとんど生まれないからだろう。
けれどもこの映画が描こうとしているのは、そのような分断による絶望ではなく、分断の事実を直視することによって、自身が置かれているか立場を知り、その地点から出発しようという建設的な態度だと思う。
先述のディスタンクシオンの最後の回で、岸先生は「重力があるから飛べる」と言っていたけれど、まさしくそのことがメッセージになっている。
本作の登場人物たちは、自分の不自由さをよく知ることから、自由のかたちを模索したのだと思う。
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田舎育ちの紀子(水原希子)は、華子と出会ってしまうことで、自分が青木(高良健吾)とは釣り合わない、東京の外部の人間であるということを自覚する。
そのため、青木との付き合いを絶ち、紹介してもらった仕事も辞めてしまう。
その代わりに、彼女は地元の親友の理英(山下リオ)と地方を活性化する事業を立ち上げる。
言い換えれば、それは東京の一部となるのではなく、東京の外部に軸足を置いて、東京を商売相手にすることに決めたのだ。
美紀が東京の一部になろうとしていたとき、彼女が居るのはパーティー会場やキャバクラ、あるいはホテルの一室など、豪華だけれど窮屈な屋内ばかりだった。
しかし、彼女が東京の外部の人間であるという自覚を持ってからは、都心を自転車で乗り回し、オープンテラスのイベント会場で高層ビルをうっとりと見上げたりする。
その姿は、洗練とは無縁の田舎者かもしれないけれど、とても自由で楽しそうに見える。
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そして、断絶を乗り越えられないからといって、階層に自閉しなければならないというわけでもない。向こう側の世界に、祈りを届けることぐらいはできる。
美紀は青木について「ここ十年で一番の友達だった」と評していた。
埋めることのできない断絶があったとしても、彼らが長年の友達だったことは紛れもない事実だったと思う。
だから美紀は何も言わずに青木の前から消えるのではなく、もう一度青木に会って、(いくらかの皮肉を込めて)地元のいか煎餅を餞別として渡す。
一方の華子も、青木が別の階層の人間であることがわかり、紀子との再開も経て、自身が所属する階層について考えるようになる。
紀子と会った帰り道、華子が橋を歩いていると、向かいの橋で若い女の子が自転車で二人乗りをしているのが目に入る。
その様子をぼんやりと眺めていると、女の子たちは華子に手を振ってくる。華子も、反射的に手を振り返す。そうしているうちに、彼女の表情には自然と笑顔がこぼれてくる。
これも、いか煎餅と同じなのだと思う。
向こう岸に渡ることはできなくても、幸運を祈ることはできる。
"平行線の二本だが、手を振るぐらいは"
映画のクライマックスでは、逸子(石橋静河)のコンサートで、離婚した華子と青木が一年越しに再開する。
そのとき、華子は逸子のマネージャーとなり、青木は政治家になっていた。二人の立場からすれば、その断絶は一層深くなったように思える。
しかし二人の雰囲気には、以前とは異なる穏やかさがある。
ラストのショットでは、逸子の演奏を聴きながら、華子と青木が視線を交わしあう。
そのとき二人は、互いの暮らしに思いを馳せ、その世界での幸運を祈ったのかもしれない。
岨手監督はどうやらMVも撮影されるようで、sugar meの「as you grow」も監督の作品。全然作品には関係ないけど、いい曲なので貼っておきます。