「きみはいい子」 やさしさとしぶとさ

「きみはいい子」(2015)
監督:呉美保


夫が単身赴任をしており、ひとりで娘のあやねを育てている雅子(尾野真千子)には秘密がある。あやねが少しでも悪いことをすると、つい手をあげてしまうのだ。
雅子は幼少期に親から虐待を受けており、おそらくそのことが影響していて、自身もそのようになってしまっている。
一方で、手をあげるのが悪いことだという自覚はあるから、それでも行為を止められない自分にひどく嫌気がさしている。 

 
そんな彼女の様子を見て、ふと思い出したのがこの曲である。

”やさしくなりたい やさしくなりたい 自分ばかりじゃ 虚しさばかりじゃ”

「やさしくなりたい」というタイトルはやわらかいのに、楽曲に漂うムードはヒリヒリとして、差し迫った印象を受ける。
おそらく「やさしくなりたい」という願望は「そうなれればいいな」くらいの淡い期待ではなく、「そうならなければならない」に近い「渇望」なのだと思う。
やさしくなれない自分に対する虚しさや失望。他者はおろか自分のことすら愛することができない。
自分は親ではないけれども、そんな苦しみについてなら、少しはわかるような気がする。
 
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「やさしくなる」ためには一体どうすればいいのだろう。
作中で、主人公の高校教師・岡野(高良健吾)の姉(内田慈)が次のように語る場面がある。

「わたしがあの子にやさしくすれば、あの子も他人にやさしくしてくれんの」

やさしくされるから、やさしくなることができる。
この考えは、その手前のシーンと合わさって、強い説得力を持っている。
 
ある日岡野が実家でぐったりとしていると、姉が息子を岡野と遊ばせようと仕向ける。
しかし岡野は疲れているからと断りを入れる。岡野のクラスではいじめやモンスターペアレントの問題を抱えており、ストレスがたまっていたのだ。
それを受けて姉は「おじちゃんに頑張ってと言ってあげて」と息子に耳打ちする。
すると息子はよたよたと歩いていって、岡野にしがみつき、「がんばって」と繰り返す。
当初は戸惑っていた岡野だが、子供と抱き合っていると、しだいに表情が柔らかくなっていき、気付けば「ありがとう」とこぼしている(このとき画面の端で見守っている内田さんの表情がとても素敵だ)。

ここで岡野が甥っ子から受け取ったのは「やさしさ」に他ならない。
そして甥っ子の「やさしさ」を与える能力は、母親がやさしくし続けたことで育まれたものなのだと、ここでは説明されているのである。
 
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もう少し踏み込んで、「やさしくする」という行為についても考えてみたい。
とりあえずググってみると、「他人に対して思いやりがあり、情がこまやかである」と出てくるのだが、漠然としていてあまり役にたたない。
なので個人的な考えを述べておくと、「人が困っていたり、落ち込んでいたりするのを察して、その回復に資するなんらかの行動をとってあげる」みたいなことだと思っている。
つまり、高度な洞察に加え、判断力・実行力が必要なとても難度の高いふるまいだということだ。
(意義はいくらでもあると思いますが、「やさしくする」ことがかんたんではないという点は大筋同意していただけると思います)

しかし、本作では「やさしくする」ということは、もっとシンプルなものだと考えられている。
抱きしめることや、頭を撫でてやること。
そういった身体的な接触によって、個人の資質に左右されず、「やさしさ」は相手に届けることができるのだと、そんな風に考えられていると思う。

典型的なのは、陽子(池脇千鶴)が雅子を抱きしめる場面だ。
陽子は雅子にとってのママ友にあたる。彼女は雅子とは対照的に、子供がどんなにやんちゃをしても受け入れる度量があり、「次はしないでね」と諭すことはあっても、決して手をあげることはしない。
雅子は、そんな陽子のことを嫉妬と羨望が入り混じったまなざしでいつも見つめている。

雅子があやねを連れて陽子の家を訪れたある日、あやねが誤ってボールを雅子にぶつけてしまい、そのはずみで雅子は持っていたグラスを落として割ってしまう。雅子が反射的に体を起こすと、あやねは暴力を予測して、ごめんなさいと声をあげて泣き出す。それを見て雅子は(虐待が明らかになってしまうことを恐れ)「大げさにしないで」とあやねを怒鳴りつける。
 
ここで、陽子が後ろから雅子を抱きしめる。
一瞬にして空気が変わってしまう。突然のスコールが止んで、おだやかに晴れだすような。
そんな陽子のぬくもりを感じながら、雅子は静かに涙をこぼす。

やさしさは、身体を通して最短距離で届けられる。そんな事実がここでは伝えられていると思う。

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しかし忘れてはならないのは、どれほどやさしくしたからといって、相手もすぐにそうなれるわけではないということ。
ゲームの世界みたいに、あとこれくらいで進化する、みたいなメーターがあればわかりやすいのだけれど、当然そんなものは現実には存在しない(仮にあっても嫌な気はする)。
最悪の場合、どれだけやさしくしても、相手がそうはならない可能性もある。
作品においても、陽子の優しさに触れた雅子が、手をあげることを止め、あやねと自分のことを愛せるようになったのかははっきりとしない。

それでも、自分がやさしくしなければ、相手がやさしくなることはない。
だから、相手のやさしさを萌芽させるためには、ある種の「しぶとさ」が必要なのだと思う。
そのことを如実に表しているのが、岡野とクラスの生徒・神田の関係だ。
 
親からのネグレクトを受けている神田は、家庭でもクラスでも居場所がない。
そんな神田のことを、岡野はずっと気にかけていて、ごはんに連れて行ったり、家まで送って帰ったり、彼なりにやさしくしようと努めている。

ある日、岡野は甥っ子に抱きしめられたことにひらめきを得て、クラスの生徒たちに「家族に抱きしめられてくるように」と宿題を出す。
それを受け、生徒たちはぶーぶー言いながら帰っていくが、神田だけは「絶対やってきます!」と強い口調で宣言をして教室を後にする。
翌日、岡野が宿題の結果を確認すると、意外にも多くの生徒たちがこなせていて、それぞれが抱きしめられたことの感想を述べ、互いの話に真剣に耳を傾けていた(このときのクラスの静けさはそれまでと比べると不気味なほどだ)。
しかし、(その日の給食は彼の大好きな揚げパンだったにも関わらず)神田の姿はそこになかったのだ。

映画のラストは、岡野が神田の家を訪れ、ノックをするシーンとなっている。
結局、神田は作中で親からのやさしさを獲得することはできなかった。
けれども、そこでもうだめだと諦めてしまったら、彼はやさしさを知らず、雅子のようにずっと苦しみ続けることになる。
だから、状況がいつ好転するのかはわからなくとも、だれかがしぶとくやさしさを届け続けるしかない。
岡野のノックには、その険しい道のりを歩むことを決めた覚悟が表れていたように思う。

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雅子や神田の親を肯定することはできないけれど、子供を育てること、子供にやさしさを与え続けることは、ほんとうに大変だと思う。
これだけハードなことなのに、いままで数えきれない人たちがそれをやり遂げて、その連続の果てにこの世界があるのだと思うと、素直に感動をおぼえる。
ラストシーンの手前で、街中に架空の桜が空を舞っているのは、そんな世界への祝福なのかもしれない。

ちょうどこの頃、友人に立て続けに子供が生まれている。
めでたいと思う同時に、彼らはそんな世界の連続を担っていくのだと思うと、ずいぶん遠い存在になってしまった気もして、少し寂しさも感じる。
彼らに対して、こちら側からできるのは陰ながら応援することくらいである。
めちゃくちゃ大変だと思うけど、しぶとくがんばってほしい。
そして子供たちがやさしく育ってくれればいいなと、心からそう思う。