「すずめの戸締まり」 話を続けることについて

「すずめの戸締まり」(2022)
監督:新海誠

以下、「すずめの戸締まり」だけでなく、「君の名は。」「天気の子」のネタバレも含みますので、ご注意ください。

 

新海誠の執念にふれる

 ラストシーンの手前で、すずめは過去の自分に語りかける。

 "あなたはこの先ちゃんと大きくなる。未来なんて怖くない。"

 その場面が、心に響いた。変な表現かもしれないが、このときようやく、わたしは新海監督と和解できたような気がした。

 「観客との言葉の交換作業がこの映画をつくらせた」とインタビューのなかで新海監督は語っている*1。「君の名は。」「天気の子」という作品は、必ずしも意図したこと伝わらず、批判的な意見を目にして、ショックを受けることもあったという。

 正直なところ、わたしも両作に対しては批判的な立場だった。どちらの作品も、災害という題材を快楽の装置として利用しているという印象が、どうしても拭えなかったのだ。

 しかし、「すずめの戸締まり」を観て、監督のインタビューに目を通すなかで、それは誤解だったのかもしれないと思うようになった。

 どんなに優れた作家でも、自分の考えていることをそのまま作品に落とし込めるわけではない。無論、受け手の感じ方も、その人の立場や信念によって異なってくる。映画という媒体は、本来的に不安定なものだ。

 その中で、災害というテーマにどのように取り組むべきなのか。

 その問いに悩みながら生み出されたのが「君の名は。」「天気の子」であり、それらの作品への反応を受け、試行錯誤を重ねた結果、ようやくたどり着いたのが「すずめの戸締まり」なのだと思う。
 そして本作は、わたしのような人間も含めて、多くのひとの心を動かすことになった。

 新海監督は、もはや日本でも屈指のヒットメーカーである。仮にがらっとテーマを変えて、無難な作品を世に送り出しても、動員やタイアップには困らなかったと思う。
 それでもなお、災害という困難なテーマにこだわり続ける監督の執念には、ほんとうに頭が下がる。

「やり直し」のない世界で 

 「すずめの戸締まり」は、なぜ過去の二作にはないメッセージの強度を持ちえたのか。

 ひとつには、「やり直し」の概念が後退したことが関係していると思う。

 言うまでもなく、「君の名は。」という作品は、神がかりの「やり直し」によって破局が回避される物語だったが、「すずめの戸締まり」は、ファンタジーの要素を多分に含みながらも、「やり直し」という方法は認められていなかった。

 象徴的なのは、冒頭でも触れた、すずめが幼少期の自分と再会する場面。
 幼いすずめは、自身に語りかけた存在について「母親かもしれない」と思っていたが、結局その正体は自分自身であった。
 見方を変えると、時間軸を歪めて、過去の自分に会うことはできても、亡くなった母親と再会することは叶わないのである。

 極論すれば、物語の魔力によって、「君の名は。」では「死」という概念すらも乗り越えてしまうが、「すずめの戸締まり」においては、(現実と同様に)「死」は克服することのできない、絶対的な概念として位置づけられている。

 もう一点、本作はこれまでの作品に比べ、タイアップが限定的だった点にも着目したい。

 「天気の子」は主人公の選択によって、世界の在り方を変えてしまう物語だったが、タイアップがあまりにも多かったゆえに、中にはその結末を反故にするようなCMも含まれていた*2
 それゆえに、「天気の子」の結末は、リセットすれば別の結末を手に入れられるかのような、ある種のゲーム的な軽さがあったように思う。

 一方で、「すずめの戸締まり」のタイアップは、(わたしの知るかぎりでは)物語を相対化するようなものはなく、どちらかといえば、物語と親和するものだけが厳選して残された印象すら受ける*3

 そのようにして、「すずめの戸締まり」では、「やり直し」という概念が意識的に排除され、オルタナティブが存在しない物語となったことで、メッセージがより切実なものとして受け止められるになったのだと思う。

(暴力的な)現実との接続

 もう一つ挙げておきたいのは、作品の設定についてである。

 日本の風土や文化を参照したファンタジーという大まかな構造は、過去の二作と同様だが、ディテールに着目すると、これまでの作品と比べて、本作はより現実社会の条件が反映されていたように思う。

 例えば「閉じ師」という職業は、各地の廃墟に存在する扉を閉じることで、災害を防ぐことができる設定になっている。しかし、その扉は不規則に開かれるので、ときには戸締まりが間に合わず、災害が起きてしまうことがある。

 現実には閉じ師は存在しないが、災害がランダムに発生し、予測できない事態に見舞われた際に、被害が生じてしまう点は、この世界と同様の条件である。

 また、災害を引き起こす「ミミズ」と戦う存在として、本作には「大臣」という神が登場する。大臣はすずめによって一度は役割から開放されるが、最終的には、「草太を救いたい」というすずめの意思を汲み、その身代わりとなるかたちで、ふたたび役割へと戻る。
 これについても、言うまでもなく、現実の災害対応は、過酷な現場で活動する自衛隊員や、原発の除染作業員をはじめとして、身を挺する誰かがいるからこそ、被害が最小に留められている。

 より直接的な緊急地震速報のアラームや、震災の直後を思わせる描写も含め、本作では目を背けたくなるような現実が随所に反映されている。

 そのような、なかば強制的な現実との接続によって、メッセージの強度が担保されている側面はあると思う。
 その暴力性については、再び批判を受けることになるだろう。ただし、それでもなお、このような表現を選んだ監督の問題意識については、観客である我々もよく考える必要があると思う。

「ただいま」を言うために

 本作がロードムービーの形式である意味についても考えておきたい。

 すずめは幼い頃に震災で母親を失っており、その経験から「生きるか死ぬかはただの運」という死生観を持っている。
 それゆえに、いざというときには、「死ぬのは怖くない」とか「わたしが要石になる」といった、無鉄砲なセリフを口走ることがある。

 そんな彼女だが、物語の最後になると「大切な人と同じ世界で生きる」ことを望んでいる。
 すなわち、彼女は作品のなかで、主体的に「生きたい」と考えるようになるのである。

 その価値観の変化を生んだのが、旅の経験だったのだと思う。

 見知らぬ土地を訪れ、そこで暮らす人たちと交流を深めるなかで、すずめは "他者とのつながりのなかにある自身という存在” について考えるようになったと思う。

 また、すずめは出会った人々からさまざまな贈与を受けている。たとえば、愛媛で出会った少女からは衣服を、兵庫で出会った双子の母親からは帽子を受け取っている。さらに言えば、目的地にたどり着くための移動手段も、多くは他者が提供してくれたものだった。

 言うなれば、すずめはさまざまな人に恩を受けながら、旅をしてきたのだ。

 彼女が自らの意思で「生きたい」と思うようになったのは、草太という存在に加え、旅路のなかで与えてくれた人たちに恩を返さなければならないという、ある種の使命感も影響したのではないだろうか。
 そして、その恩への報い方が、「ただいま」を言うことだったのだと思う。*4

伝えていくということは、話し続けるということ

 監督は、自分の娘が「君の名は。」を観た際に、「震災を連想していなかった」という実体験を引き合いに出して、十代の観客が、もはや震災という出来事に接続していないことへの焦りを表明している*5

 個人的な経験としても、ここ数年、東北の震災伝承館を訪ねると、課外授業に訪れている学生を見かけることが多くなった。あの日のできごとは、多くのひとにとっての共通の体験から、歴史の教科書の1ページへと変わってきているのかもしれない。

 当たり前のことだけれど、11年という時間はとても長く、当時小さかった子どもたちは、いまや中学生や高校生となっている。
 日々、膨大な情報に触れる彼ら/彼女らのなかに、震災という出来事をどのように残していくべきなのか。その戦略は具体的に考えていかなければならない。

 その手段の一つとして、アニメーションが有力であるということは間違いないと思う。幅広いターゲットを捉えることができ、なおかつ解像度の高いメッセージを届けられるメディアは限られるからだ。
 ただし、伝える内容を個別に最適化することができないというデメリットもある。そのため、一歩間違えれば、誤った印象を与えてしまうし、最悪の場合、受け手を傷つけてしまうこともある。

 そのようなリスクの高い条件下で、ときに厳しい批判を浴びながら、それでも震災というテーマに取り組み続ける監督は、ほんとうに強い人だなと思う。

 *

 被災をしていない人間が、震災とどのように関わっていくべきなのか。
 私自身、その答えがわからないまま生きてきた。おそらく、これからも正解は見つからないと思う。

 ただ、監督の姿勢に触れて思ったのは、各々があの日のことを忘れず、その内容を他者と話しあうという営みは、これからも重要なのではないかということだ。

 このブログを更新したのはおよそ一年ぶりで、4千字も書いたのは記憶にないくらい久しぶりのことだ。「すずめの戸締まり」は、それだけ「話したくなる」作品だったのだと思う。

 本作に寄せられた声を踏まえて、監督はまた次の作品の構想を練るはずだ。
 それが一体どのような作品になるのか、楽しみに待ちたいと思う。

 

この記事を書いているとき、なぜか頭の中でずっと流れていた曲。
どうも見覚えがあると思ったら、このライブ、当時観に行ってた...。いま聞いても素晴らしい歌声です。

*1:https://www.pen-online.jp/article/012110.html

*2:https://animegaphone.jp/tenkinoko-sponsor/

*3:このラインナップにグローバル企業の名前がひとつも見当たらないのが印象的だ

*4:エンドロールでは、すずめがお世話になった人々と再開するイラストが挿入されている。

*5:https://febri.jp/topics/suzumeno-tojimari2/