「コーダ あいのうた」 わかりあえないことから

「コーダ あいのうた」(2021)
監督:シアン・ヘダー

 

「わかる」ということの限界

 ある世界で生きる人間が、別の世界の人間のことをとつぜん理解できるようになる。そんなことは奇跡でも起こらない限りは不可能だ。
 本作が映画的で都合のよい偶然を用いていないわけではない。主人公に歌手としての才能があることや、それを見出す教師に出会うことは、まぎれもなくそれに該当する。しかし他者理解という観点においては、本作はあくまで現実的な立場を貫いている。

 もっとも象徴的なのは、ルビー(エミリア・ジョーンズ)がコンサートに出演する場面。ルビーは見事な歌を披露するが、その最中に無音の時間が挿入される。観客は彼女の歌に惜しみない拍手を送るが、耳の聴こえないルビーの家族はその反応にとまどう。視覚の情報から、ルビーがすばらしいことをやってのけたと理解することはできても、聴覚の情報でルビーの歌に感動することは、彼らにはできない。

 もちろん逆も然りだ。健聴者が、難聴者やCODAの生きる世界を理解することも難しい。ルビーの同級生は、ルビーの発音がおかしいことや、授業中に居眠りしていること、家族が爆音の車で迎えにくることを、わけも知らずに笑いものにしている。
 さらにいえば、学生だけではなく、「17年しか生きていない君に何がわかる」と経験の重要性を説く教師のヴィラロボス(エウヘリオ・デルベス)すらも、一家の環境を理解しているとはいえない。
 彼女がレッスンに遅刻をするのは替えのきかない家族の仕事を手伝っているからだが、ヴィラロボスはルビーにやる気がないのだと決めつけてしまう。しかしルビーの「家族としかいたことがない」という告白を聞いて、彼は自分の想像力の至らなさを反省する。

「わかりあえない」から出発する

 冒頭で述べたとおり、奇跡的な偶然によってわかりあえるという筋書きはこの映画では採用されない。しかし、完ぺきにわかりあうことができなくとも、わかろうとする努力はできるということが作品のメッセージになっていると思う。

 母親のジャッキー(マーリー・マントン)が、ルビーに「あなたが聾唖として生まれることを願った」と語る場面がある。それは娘を傷つける残酷な告白だ。
 けれどもジャッキーがそう願ったのは、彼女の母親が健聴者で、それによって関係がうまくいかなかった経験があるからである。ジャッキーはいまでもその考えを捨てきれていない。
 一方で彼女は、その考えが娘にとって呪いになっていることも理解しはじめていた。だから彼女は自分の考えを正直に述べ、自分はダメな母親だとこぼした。それを受けルビーは「ダメな母親なのは耳が聴こえないせいじゃない」と返す。ジャッキーは思わず苦笑いを浮かべる。
 わかりあえないことを認めることが、折り合いをつける糸口になることもあるのだと思う。

 ルビーの生活に想像が至らなかったヴィラロボスは、Youtubeで手話を覚えて、ルビーの両親に直接挨拶をする。彼の手話は間違いがあって、ひどく下品な表現になってしまったけれど、おかげで父親のフランク(トロイ・コッツァー)は先生は話がわかるやつだと感じた。
 そのフランクは、ルビーの歌声を少しでもわかりたいと思い、彼女を目の前で歌わせ、喉に手を触れてその振動をたしかめる。

 それぞれが少しずつ相手をわかろうとすることで、ルビーの家族は、自分たちとは異なる世界へ彼女を送り出すことを決断できたのだと思う。
 ルビーはオーディションで、歌詞の意味を手話で通訳しながら歌った。それは家族や恩師たちが試みたことの彼女なりの実践であり、そんな彼らへの感謝の表現でもあったのだと思う。

決断

 二つの世界に橋をかけられたとしても、両方の世界に同時に存在することはできない。自分がどの世界に軸足を置くのかは選択しなければならない。物語の結末は、ルビーのその選択が強調されている。
 バークリーへと向かうルビーを車で送り出すのは、健聴者である兄の彼女だ(父親が車を運転するシーンは劇中で何度も登場するので、消去法で彼女がドライバーに選ばれているわけではない)。
 また、最後の別れの場面では、フランクは「Go」と口にしてルビーを送り出す。フランクが言葉を口にするのはこの場面だけだ。そこには、ルビーを自分たちとは異なる音声言語の世界に送り出すという決断が現れていると思う。

 目の前に二つの道があって、どちらにも行けるのなら人生はたやすい。しかし現実にはどちらかしか選べないことがほとんどだ。決断はいつだって痛みをともなう。本作においても、漁協組合の運営という課題は残されている。
 それでも家族は娘を送り出し、娘は家族を苦しめるとわかっても自分の夢を叶えにいく。それぞれの痛みを受け止めて、決断までを描ききった脚本を、わたしは称賛したいと思った。