「ドライブ・マイ・カー」をめぐる断片

「ドライブ・マイ・カー」(2021)
監督:濱口竜介

 

映像に残されているもの

 作品は約3時間の長編だけれど、「長い」と感じることは一度もなかったと思う。洗練された文体の小説を読んでいるように、時間がなめらかに過ぎていく。
 映像に余計なものがないのだと思った。足し算ではなく、引き算のやり方。
 たとえば役者のセリフは、抑揚を欠いたものが多い。声色はそれ自体が情報を持つから、行き過ぎると発話の内容に対してノイズになってしまう。また、基本状態が平板だからこそ、感情が乗ったときにエネルギーが感じられる効果もあると思う。
 劇伴の使用も非常に限られていた。石橋英子さんが手掛ける楽曲はとても美しい。けれども、それが流れるのは物語の転換点だけだ。多くの映画でみられるような、喜怒哀楽を増幅させるよう使い方はされない。物語と一定の距離をとりながら、必要なときに先へと導く謎めいた案内人のような役割を担っている。
 劇伴が少ないことで、環境音の意味に耳を傾けることもできる。高槻(岡田将生)が連行される場面では、刑事が使うマイクのリバーブが状況の異様さを強調していた。みさき(三浦透子)の実家に到着した際のクラッチの操作やドアの開閉音は、家福(西島秀俊)たちの旅が終わりを迎えたことを意味していた。終盤の「ワーニャ叔父さん」の上演では、観客の咳ばらいが聞こえることで自分もその場にいるような錯覚を覚えた。
 そのようにして、映像のあらゆる要素は選択して残されている。逆にいえば、それ以外の要素はつとめて排除されている。だから観ていて澱のようなものが残らない。そうして時間はよどみなく、なめらかに流れるのだと思う。

音の物語が意味すること

 音(霧島れいか)は、ある女子高生が同級生の山賀の家に空き巣に入る物語を家福に語っていたが、結末にたどり着く前に彼女は亡くなってしまう。
 しかし高槻は物語の続きを知っていた。彼の話では、ある日空き巣に入った女子高生は、山賀の部屋で別の空き巣に遭遇し、襲われそうになったところを殺してしまう。空き巣の死体は置き去りのまま、彼女は山賀の家を後にする。そのとき女子高生はある種の安堵を覚える。罪に対する裁きを受け、もう空き巣に入らなくてよくなると感じている。
 しかし翌日学校に行くと、山賀は何事もなかったように過ごしている。次の日も、また次の日も山賀は変わった様子もなく過ごしている。
 女子高生は山賀の家に再び向かう。家の様子はほとんど変わらないが、ただひとつ、監視カメラの存在が以前とは異なっていた。彼女は監視カメラに向かって「私が殺した」と何度も語りかける。

 生前の音は否定していたが、空き巣をやめられない女子高生と、不倫を止めることができない音はやはり重なって見える。死体の事実を隠す山賀と、音の不倫に気づかないふりを続ける家福も同様である。
 そして、女子高生は山賀が事件を隠していることを知っているということは、音は家福が不倫に気づいていることを知っているということになる。
 劇中では、家福が帰宅し、音が男と交わっているのを見て、そっと家を出る場面がある。そのとき家福は玄関の鍵を閉めなかった。そのような痕跡から、音が自身の不倫が知られていることを悟っていた可能性は十分にある。
 裏を返せば、そのような家福の態度を知ったうえでも、彼女は自分の罪を家福に打ち明けたいと思っていた。
 家福は、彼女のそんな決意から逃げてしまった。そして音は二度と戻らず、家福は心を凍結した。
 音の死後、家福がワーニャを演じられなくなったのは、ワーニャの絶望や苦しみの語りを通して、封じ込めていた音への感情が氷塊することを恐れていたのだと思う。

理解不能な他者と向き合うために

 音、高槻、みさきの母。本作では、理解不能な面を持った人物が多く登場する。そのような他者とどのように対峙すべきなのか。本作の一つのテーマはそれだと思う。
 高槻が家福に語ったように、どれだけ愛している相手であっても、人の心をそっくり覗き込むことはできない。だから結局のところ、本当に相手を見たいと思うなら、自分の心と正直に折り合いをつけるしかない。*1
 家福が手掛ける多言語演劇は、言語の意味性による意思疎通を基盤としない演劇である。その稽古において、家福は本読みを執拗に繰り返す。相手との演技の前に、まずはテキストと徹底的に向きあわせる。それによって、テキストに応えるようにして演技が引き出されるというのが、家福のメソッドだった。
 家福自身に必要だったのは、まさしくそのやり方だったのだと思う。
 音をわかろうとするために、まずは自分の心と徹底的に向き合わなければならない。それによって、自分が音の行為をどのように感じ、彼女にどんな言葉をかけるべきだったのかが浮かび上がってくる。

移動すること、変わること

 自分の心と向き合うには、本読みと同じように長い時間が必要なのだと思う。
 家福の本心を引き出すきっかけを作ったのは、みさきの母にまつわる語りだが、仮にあの語りが広島でされていても、家福の心を溶かすことはできなかったと思う。その時点では、家福が自身と向き合うための時間が足りていないからだ。
 車での移動は、肉体の自由を制限することで内省をいざなう。広島から北海道への長い旅路は、家福が高槻の語りを咀嚼し、自身の心と向き合うために必要な時間だったのだと思う。
 思えば車の運転は、濱口監督の前作「寝ても覚めても」でも重要な意味を持っていた。宮城へのボランティア活動と、かつての恋人との北海道への逃避行。どちらも原作にはない場面をあえて追加したものだった。
 後者の場面では、車が宮城に差し掛かったところで、主人公の女性がもう一人の男の元へ戻ると言い出す。その理由はよくわからない。けれども、移動して、場所が変わるということは、人の心情に少なからぬ影響を与えるのだと思う。監督はその効果に特別な意味を見出しているのかもしれない。

 本作のクライマックスでは、みさきが韓国にいて、ショッピングセンターで買い物をしている。人々がマスクをしていることを踏まえると、アフターコロナの世界なのかもしれない。
 彼女が韓国に移動した理由については一切語られない。しかしながら、偶然流れ着き、漠然と留まっていた広島を去ったということは、彼女もなにか変化を求めたのかもしれない。
 髪型を変えること、大型犬を飼うこと、
赤いサーブでのドライブ。映像に残された要素は、彼女の生きることへの期待を表しているように思う。
 移動して、変わること。家福がそうしたように、みさきもまたその実践で、人生の時間を進めていくのだと思う。

*1:このときの高槻の謎めいた魅力の語りに、映画という媒体の奥行きを知ったように思う