「あのこは貴族」 東京を生きる、幸運を祈る

「あのこは貴族」(2021)
監督:岨手由貴子


 Twitterで、岸政彦先生が「この映画気になる」と言っていて、先生が邦画の話するのは珍しいなと思っていたら、そこに原作者の山内マリコさんが「100分de名著のディスタンクシオンの回観てました!」と反応していて、面白い偶然だとひとり盛り上がっていたのですが、実際作品を見てみると、それは偶然というより必然だったのかもしれません。
 二人が(あるいはブルデューが)言おうとしていたのは、とても近しいことだったのだと思う。

 

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「はちどり」 傷跡が意味すること

「はちどり」(2018)
監督:キム・ボラ


少女が玄関を何度もノックしている。
ノックの音は次第に強くなり、少女は「お母さん、わたし」と悲痛な声をあげるが、扉はまったく開く気配を見せない。
彼女は目線を泳がせる。そのときドアのナンバーが目に入る。
彼女はぴたりと泣き止むと、近くの螺旋階段を一階分上り、先ほどの真上の部屋のドアノブを握る。
なんということはない。彼女は自分の部屋を勘違いしていただけなのだ。 


そんな冒頭のシーンからして実に巧妙な映画だ。
日常のささいな出来事のなかで、少女が置かれた環境についてそれとなく情報が与えられる。
ひとつには、自分の家を錯覚するくらい均質な団地に住んでいるということ。
ひとつには、彼女はいつか家を閉め出されてもおかしくないと考えているということ。
 
*
 
少女の名前はウニ(パク・ジフ)と言い、父と母、兄と姉の5人家族で暮らしている。
舞台は1990年代の韓国で、昭和の日本と似たような文化が残っている。
家長が威張りくさっていたり、無条件に年長者を敬わなければなかったり、学歴が人生を決めたり、世間体が個性よりも重要だったりする文化である。

ウニの家庭も例外ではなく、横柄で他人の陰口ばかり叩く父親が家庭の権限を持ち、次いで有名大学への受験を控える兄が優遇されている。
母はそんな男たちに黙って尽くし、二人の娘は、なにかにつけて殴られたり、叱られたりするばかりだ。

一度だけ、母が父に激怒する場面がある。子供の面倒もろくに見ず、仕事を放り出して不倫にあけくれている夫に対して我慢の限界を迎えたのだ。
そのとき母は近くにあった花瓶を投げつけ、割れた花瓶の欠片が父の腕を裂き、赤い血が流れる。
しかし、翌朝ウニが目覚めると、夫婦はリビングで揃ってテレビを見ている。
ソファに座っているのは父で、母は床に座っている。それはまるで飼い主と飼い犬のような関係に見える。
ウニは父の腕にまかれた包帯を見つめる。昨日の小さな革命の、その儚さを思ったのかもしれない。
 
*
 
家の外でのウニは、カラオケやディスコに行ったり、ボーイフレンドとこっそりキスをしてみたり、親友と万引きをしたりしている。
憂鬱と退屈を紛らわすように、彼女はいくらか刺激的な遊びに興じることが多い。

しかしそんな些細な愉しみさえも、彼女の手のひらからこぼれ落ちていく。
ボーイフレンドはある日突然連絡がとれなくなり、次に見かけたときは別の女の子と仲良くしていた。
一緒に万引きをした友人は、我が身かわいさに店主にウニの情報を売る。
ティーンエイジャーのむきだしの残酷さが、ウニの心を抉っていく。

そんなストレスと連動するように、ウニの首に腫瘍が見つかる。
腫瘍は日に日に悪くなって、ついには大病院で手術と入院が必要と診断される。
 
*
 
なにひとついいことが起こらない。
そんな暮らしのなかで、唯一心を開くことができたのが漢文塾の先生(キム・セビョク)だった。
先生は大学を長い間休学しているらしく、休憩時間には窓際でタバコをくゆらせ、いかにもはぐれものという雰囲気をまとっている。
そんな先生に対して自分と似たものを感じ取ったのか、辛いことが起こると、ウニは先生に相談をするようになる。
先生の側もウニに対して親密な感情を持っていたように思える。
ときに自らの経験を交えながら、先生はウニに理不尽な世界を生き抜く術を教えていく。
 
ところが、ウニが腫瘍の手術から戻ると、先生は漢文教室から姿を消していた。
教室を運営するおばさんに話を聞くと、彼女は荷物をとりにもう一度来るという。
ウニはお別れをするために指定された日時に教室へ向かう。しかし先生は現れない。
おばさんに問うと、彼女ならさっき来たという。何時と言ったじゃない、とおばさんは付け加える。
ウニは聞いた時間と違うと食い下がるが、おばさんはそれを都合よく聞き流す。
ウニは耐えきれずに怒りの感情をあらわにする。

反抗的な態度をとったウニを教室を退会させられる。
家に戻ったウニは、家族から家の恥だと糾弾される。
彼女は気がおかしくなりそうで、わたしは何も間違っていないと叫ぶ。
ウニの反抗的な態度をみるや、兄がウニを強くはたく。
彼女はうずくまる。声がよく聞こえない。今度は鼓膜が破れたのだ。
 
*
 
なんてクソな人生だろう、と彼女は思ったに違いない。どうあがいてもそこから抜け出すことができない。
十代は残酷な時間だと思う。そのときすばらしい青春を迎えられるかは、ほとんどあみだくじで決まっている。
どんな時代の、どの地域の、どの程度の階層の家庭に生まれるか。そこにすべてがかかっているといって過言ではない。
仮に外れくじを引いてしまうと、二度と引き直しはできない。
自立する年齢になるまでは、あらゆる苦しみに耐え、どうにか生き延びるしかない。

しかしそのよう確定された人生が、とつぜんひっくり返ることがある。
自分や家族の思惑を飛び越えて、強い力が世界をかき乱すようなときだ。
いままさに我々はそれを体感している。
他者との接近が忌避される世界なんて、いったい誰が予測できただろう?

*

1994年のソウルでは鉄橋の崩落事故が起きた。その鉄橋はウニの姉の通学路だった。
幸い、姉はバスに乗る時間に遅れてしまったため事故に巻き込まれずに済んだ。
しかしその日の姉は茫然自失で、兄はとめどなく嗚咽していた。死が、まとわりついている感じ。
とにかく無事を喜ぼう、という父の声は食卓を虚しく空転する。
 
ちょうど同じころ、ウニは先生からの郵便を受け取っていた。
入院前に先生に貸していた本が送り返されてきたのだ。
彼女は先生に会いたくて、郵便の宛名の住所を訪れる。
そこで出迎えてくれたのは中年の女性で、ウニは彼女から崩落事故で先生が亡くなったことを知らされる。
ウニはショックを強いショックを受けるが、一方でその死の実感が伴わない。

その夜、ウニはこっそりと家を抜け出して、事故現場を訪れた。
川の上に長い鉄橋がかかり、丁度その真ん中のあたりがぽっかりと欠けている。
橋がかかっていたはずのその空間には明けつつある空の色が見える。

そのとき、彼女は先生の死について初めて涙を流す。
その橋の”傷跡”は、いまこの世界が、先生のいない世界であることを静かに告げていたのだ。
 
*
 
傷跡は不思議なものだ。
私は肘にちょっとした傷跡がある。
たまにその傷跡が目に入ると、その傷を負ったときのことを思い出し、同時にこの傷跡のない人生がありえないことを思う。
それは過去との紐帯であり、同時にその過去との断絶を示すものでもある。
傷跡のある私は、選択の余地なく、過去とは異なる私になる。
 
*
 
ラストシーンは校庭のような場所で、たくさんの女学生が賑やかにしている。
ウニはひとりで、彼女たちの様子をキョロキョロと眺めている。
そんな彼女の首元には痛々しい傷跡が覗いている。

彼女は手術をしなかった人生を送ることができない。
橋が崩れなかった人生を送ることもできない。
それでは彼女はこれからどんな人生を送っていくのだろう?

彼女が先生から受け取った郵便には手紙が同封されていて、その手紙には次のように記されていた。
 

“悪いことが起こっても、それと共にうれしいことも起こる。私たちはいつも誰かに会って何かを分かち合う。世界はとっても不思議で美しい。”

映画「ハチドリ」 l KBS WORLD Radioより引用


学生たちを眺めるウニは、好奇心とも、とまどいともとれる曖昧な表情を浮かべている。
そこには見知らぬ”誰か”がたくさんいる。これまで目にも止まらなかった“誰か”である。

傷跡の彼女にとって、そこは驚きと発見に満ちた新しい世界だ。
彼女はこれからその世界の不思議に触れていくことになるのだと思う。



*淡い光に包まれたウニの美しくてけだるいアップショットが印象に残りました。そのときずっと頭をよぎっていたのがこの曲です。しかし冒頭、SMAPからのオザケン