「ブリグズビー・ベア」とInvisibleな共同体

ブリグズビー・ベア(2017)
監督:デイヴ・マッケイ


幼いころに誘拐され、25歳になるまで隠れ家で育ったジェームズ(カイル・ムーニー)が、毎日楽しみにしていたのが「ブリグズビー・ベア」というアニメだった。
ブリグズビー・ベア」は彼にとって育ての親にあたる誘拐犯のテッド(マーク・ハミル)が独自に制作した作品である。
外の世界に出たジェームズは依然として「ブリグズビー・ベア」に魅力を感じており、その続編を作りたいと考えはじめる。
当然周囲の人々は反対するが、彼のひたむきな情熱は、次第に人々の態度を変えていく。

 

 

本作を観て、思い出したことが二つある。一つ目は、是枝監督とその作品のことだ。


この記事でも語られているとおり、是枝監督は、一貫して地域、企業、家族といった伝統的な共同体をこぼれ落ちた人たちと、そんな彼らによる共同体ーーケイト・ブランシェットの言葉を借りれば「invisibleな共同体」をテーマに据えている。
そして「ブリグズビー・ベア」はまさしくそのような共同体に光を当てた作品である。

物語の終盤、ジェームズの情熱に心を動かされた彼の(血縁の)家族は、ともに「ブリグズビー・ベア」の続編を作り上げることを決意する。
しかし「ブリグズビー・ベア」を完成させるににあたっては、一つ欠かせないものがあった。テッドによるナレーションである。
その最後のピースを埋めるため、ジェームズは父の運転で拘留されているテッドを訪問し、彼に物語のナレーションの吹き込みを依頼する。

すなわち本作では、作品の制作を通じて、ジェームズの実父と、育ての親が並立する共同体が構築される。
その筋書きから思い出されるのが、生みの親と育ての親がぶつかりながら、あらたな家族の形を模索していく、是枝監督の「そして父になる」であった。

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二つ目は一昔前のインターネットのことである。インターネッツと呼んだほうがニュアンスが近いかもしれない。
それはかつてインターネットを介して存在していた、無数の、匿名の、小さなコミュニティのことである(以後インターネットとインターネッツを使い分ける)。

ジェームズは「ブリグズビー・ベア」を作り上げるにあたって、多くの情報をインターネットから得ていた。
映画作りのイロハはさまざまなWebサイトから学んでいるし、オリジナルの「ブリグズビー・ベア」のヒロインの居場所も検索で突き止めた。
ジェームズの友人がYoutubeにあげた動画は、作品がバズるきっかけになった。
インターネットがなければ、ジェームズの成功は間違いなくありえなかったのだ。
そして、ジェームズがラフな作品をインターネットを駆使しながら徐々に洗練させていくさまは、00年代のインターネッツのグルーブにとても似ていた。

おそらく作品の舞台も00年代が想定されていると思う。
作中ではGoogleYoutubeは登場しても、メッセンジャーアプリやインスタは登場しない。
iPhoneらしきデバイスは登場するが、フォルムはSE以前のコンパクトなものだし、CGソフトのUIにはノスタルジーを感じる。
なによりジェームズの活動に関して、誹謗中傷やヘイトスピーチの気配がない。
もちろん日米の違いはあるだろうが、作品の時間軸は制作時点より一昔前だと思う。

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ジェームズが家族やネットを巻き込み、作品を作り上げていくグルーブ感。それはほんとうに爽快だ。
しかしその一方で、少しばかりむなしい気持ちも湧いてくる。
その理由は、この物語が現代においてはリアリティがないからだと思う。
ブリグズビー・ベア」はいまを生きられないのだ。

00年代に話をもどすと、あの頃インターネッツにいたのは、(自分も含め)リアルの世界で居場所のない人間ばかりだった。
不登校、引きこもりはざらだったし、無職や前科持ちもいたと思う。
けれどもインターネッツの世界では、そのような属性はネタにはなっても、差別の対象にはならなかった。
むしろ彼らはそこでの活動に時間を投資できる分、一目置かれていることも多かった。
つまりインターネッツには、伝統的な共同体をこぼれた落ちた人にとっての居場所があり、まさしく「invisibleな共同体」として機能していたのだ。

加えて、そのいびつな共同体のエネルギーは現実世界にもフィードバックしうるものとして、当時は多くの人々が信じていたように思う。
インターネッツで得た知識や経験で、現実の生活を変えていくこと。端的にいえば、「電車男」的な物語が、素朴に祝福を受けていたと思う。

 



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先述の記事のなかで、ネットにおける共同体について是枝監督は以下の認識を示している。

孤立化した人が求めた共同体のひとつがネット空間であり、その孤立した個を回収したのが“国家”主義的な価値観(ナショナリズム)であり、そこで語られる「国益」への自己同一化が進むと社会は排他的になり、多様性を失う。

もちろんネット空間に居場所を求めた人々が、例外なくナショナリズムに回収されたなだということはありえない。
しかしナショナリズムの問題を措くにしても、ネット空間に居場所を見出すことは以前に比べてハードルが高くなったと思う。
どこに根を下ろすにしても、誰かに監視され、ひとつ間違いが起これば簡単に炎上する。
ブリグズビー・ベア」がいまを生きられないといったのは、そのような背景からである。

もちろんこれは主観的な見方だし、現実には優しい世界は十分に温存されているのかもしれない。そうであってくれるならいいと思う。
現実に居場所がないヤツらのいびつな共同体が、あのエネルギーが、いまもネットのどこかで息づいていればいい。
そして、その居場所が、「ブリグズビー・ベア」のような物語が、これからも悪意にさらされることなく、どこかで小さな奇跡を起こしていてくれればいいと、心からそう思う。